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クローズアップ藝大 - 第十回 日比野克彦 美術学部長/先端芸術表現科教授

連続コラム:クローズアップ藝大

連続コラム:クローズアップ藝大

第十回 日比野克彦 美術学部長/先端芸術表現科教授

異質なものと出会ってこそ

国谷

多様性が大事だと言われているわりには、この社会は異質なもの、自分と違うと感じられるものに対して乗り越える力が弱い。日比野先生も、異質なものに出会わなくなってきた、避けようと思えば異質なものと接しない社会になってきたっておっしゃっています。

日比野

そうだね。その異質なものと出会ってこその藝大なので、人間は異質なものと出会ってこそ、それぞれが光ってくるんだっていうことを藝大から発信していきたいですね。

国谷

実際に先端芸術表現科で、その異質なものとの出会いを、学生たちに対してどのような授業で、何を大事にして教えていらっしゃるのですか?

日比野

学校の中での授業より学外での活動を、教えてるっていうか連れ出してるって感じですね。近年でいえば瀬戸内国際芸術祭とか大地の芸術祭とか、このTURNプロジェクトとかっていうところで日比野研究室の学生たちも一緒に動いています。

僕が教員になったのは、1995年だから25年前。最初はデザイン科の教員で呼ばれたんです。当時は自分が教育者になる、藝大に呼ばれるなんて思ってもみなかったけれど、商業施設とかストリートとか、飲食とかテレビの仕事とか、メディアの仕事もいっぱいやってたから、そういう仕事をしているから学生を外に連れ出してほしいってことで呼ばれたというのもあったと思います。

国谷

それにしても日比野先生は活動が多様ですよね。最初からプロダクトデザイン、演劇の企画や脚本、衣装、舞台装置の製作、テレビの司会者もなさって。デザイン科の学生が社会のそういうさまざまなクリエイティブなことに関われるというロールモデルになっていると思います。

日比野

僕の場合は誰と仕事するかで発信する方向は違ってくる。例えば野田秀樹と仕事すると舞台の表現になる。NHKのディレクターと仕事するとテレビでの発信になる。メーカーのデザイナーとやるとそれがプロダクトになっていき、飲食店のオーナーと仕事すると内装になってくとか。でも僕のやることはそんなに変わらない。

国谷

卒業生の進路という課題がありますが、先輩としてどうしたらいいと思いますか?

日比野

芸術っていうのは企業でもコミュニティでも絶対に役に立つと思うんですよね。それと集団の中にはいろんな種類の人がいたほうがいい。会社とかコミュニティって何のためにあるかって考えると、1+1が2じゃあんまり意味がない。1+1が3になるとか、2×2が6になるとかっていうことからみんなが集まっていく。そのときに、価値観の違う人がいたほうが互いが光ってくる。会社でもコミュニティでも、アーティストが1人いたほうが、その集合体は豊かになると思う。だからそういう認識を社会に発信していけば、藝大生や美大生たちが一般企業とかいろんなコミュニティに行く道筋が出来てくるんじゃないかなと。

まだ理想だから実績を挙げないととか、その評価はどうやってやるのとか、だんだん話が複雑になってくるんですけど。

大学時代の発見と出会い

国谷

藝大生だった日比野克彦はどのような活動をしていたのでしょう? 3年生の6月に古美術研究旅行に行ったあたりから作品制作活動が活発になっていって、9月の藝祭で「DIAMOND MAMA」というカフェを教室に作ったんですよね。そのあとにご自分が一番表現できると思った素材の段ボールを廃材置き場で見つけた。

日比野

藝祭のときにグループ展をしようってことになって、自分たちの教室を改装してカフェにした。当時、福田繁雄さんていう僕らの教授がいて、福田さんが外からいろんなデザイナーを呼んで来ていて。それで講評会が終わったあとに一緒にお茶を飲んだりお酒を飲んだりするサロンを作ったんです。それが「DIAMOND MAMA」。

1980年 デザイン科3年生教室 DIAMOND MAMA

国谷

段ボールでウェディングケーキを作って、その上で男女を対決させるという作品を作ったそうですね。

日比野

「対決」をテーマに作品をつくるというのがありました。立体でもいいし平面でもいい。メディア問わず材料問わず。それが3年生の最後の課題で出て。

ウェディングケーキを作るために段ボールを探してたわけじゃなかったから、まずは段ボールを探しに行って、段ボールの素材から発想したのかな…うん。ここから段ボールで作品をつくるようになった。

国谷

なぜウェディングケーキの上で男女が対決? ガールフレンドと対決していたのですか?

1980年 デザイン科3年生での課題「対決」提出作品

日比野

そうだね、わかりやすく言うと(笑)。まあそれはいまの奥さんですけどね。「対決」っていうテーマから男女っていうのはまずあったんだろうね。

同じ目標を持った若者が集まれば、いろいろ言い合っているうちに恋愛感情も生まれてくる。いまでも藝大のあちこちでくっついたり離れたりくっついたり離れたり。そんな年頃のなかでのウェディングケーキと男女の対決だったんだろうね。

国谷

その学生時代の延長線上に今のDOORとか、芸術の力で社会課題に対応しようとする活動があるとおっしゃっていますが、なかなかつながりが見えにくいのですが…。

演劇、アート、社会…区切らずに考える

日比野

うん…。学生時代もそうだし、もっとさかのぼって小学校時代の環境からつながっているかもしれない。

小学校1年のときに、身近で起こった事件を担任の先生が創作劇にして、子どもたちで演じたことがあります。その小学校は附属小学校でみんないろんなところから来てたから、バス通学をしている子が多かった。夏の暑い日、バス停で待ってると暑いじゃないですか。そのバス停のすぐうしろに銀行があって、あるとき誰かが銀行の中はクーラーが効いてて涼しいってことを見つける。それで、みんなで銀行の中でバスを待つようになる。そのうち誰かが、冷たいお茶が出る機械があって、自由に飲めることを見つける。そうすると、学校が終わるとみんな銀行にお茶を飲みに行くようになってしまった。紙コップも珍しかったのかな、マイ紙コップにして持って帰って次の日にまた使って。

国谷

偉い。リユースですね。

日比野

そう。学校の自分の机の引き出しに紙コップを入れて、授業が終わると紙コップを持って銀行に行くっていうのをしばらくやってたら、ある日担任の先生が、今日はちょっとみんなに言いたいことがあると。「みんな銀行は知っていますか? 銀行は何があるところか知ってますか?」って聞かれて、「うーん、お茶を飲むところかなあ?」って言うと、先生が「銀行っていうのはね…」って説明する。それで、その事件を先生が「銀行のお茶」っていう創作劇にして、秋の学芸会で自分たちで演じたんです。その銀行の人たちを学芸会に呼んで観てもらって、最後に銀行の人に対するメッセージを言って終わったんだけど、それをなんかずーっと覚えている。社会的な課題っていうか自分の身近な出来事が作品になっていくっていうのは、僕のテーマっていうのかな、小1のそのときからずっとある。

国谷

素晴らしい先生ですね。日常の出来事を教材にして、子どもたちを傷つけないように理解させ、そして銀行の人たちを呼んで劇を見せることで事を荒立てずに治めた。やっぱりクレームが来たんでしょうね、銀行から。

日比野

来た来た(笑)。劇の最後に銀行の人たちにメッセージを伝えると、銀行の人たちは拍手してくれて。僕たちは、「銀行の人たちが困っていたけれど、これで喜んでもらえてよかった」って。

野田秀樹さんの舞台とか、寺山修二さんの芝居とか、僕も出たりするんだけど、そういう演劇とかアートとか社会とかっていうものの、区切りをつけずに考えることができたのかな。今から思えば。

国谷

原体験ですね。習字の先生も素晴らしかったとか。

日比野

隣の席の女の子はお習字教室に通ってて上手かったんだけど、僕は全然ぐちゃぐちゃ。ある日、習字の時間に先生が近づいてきた。僕が注意されて隣の子が褒められるんだろうと思ってたら、全く逆だった。隣の子に、もっと自由に書けみたいなことを言ったんだろうね。女番長みたいな感じで威張ってた隣の子が注意されて、僕が褒められたから余計に、「えー!? この授業楽しい。面白いな、この先生いいな」って。現代書家のすごく有名な先生だったんです。

国谷

3年生のときは毎日放課後に詩を書かないといけなかった。

日比野

大変だったけど面白かったですよ。朝起きて、すぐ詩を書くネタを探さなきゃいけない。日常を観察する力や表現する力が培われるってことだろうね。

国谷

2年生のときに病気で8ヵ月お休みしたときのエピソードも素晴らしいなと思いました。
日比野

小児腎炎で死にかけたらしいんだけど、あんまり意識はなくて、両親は大変だったってあとから聞きました。毎日クラスメイトが遊びに来てくれて、寂しくはなかったですね。そのとき本当に漫画をいっぱい読んだ。あと、大手出版社から名画全集とかが出始めた頃で、ちょうどお袋が絵も好きだったから、病室にゴッホとかセザンヌ、ルノワールなんかの画集があった。漫画は2回見るとなんだかつまんないけれど、絵は何度見ても面白い。見るたんびに違うなとか、あれこんな絵あったっけとか。だから病院にいたときは絵を見る時間はかなりありましたね。

国谷

学校では創造性とか社会の眼差しを大事にした教育を受け、学校に行けないときは漫画とか画集から何かを吸収し、そして友だちがずっと寄り添うっていうか、そばにいてくれたんですね。

日比野

先生が毎日3人ぐらいずつ連れてくるんですよ。友だちはみんな行きたがってたって。でもあとから聞いたら、先生が大学病院の食堂でうどんを奢ってたらしい(笑)。放っておくとみんな行かないからうどんで釣ってたって。でも3杯は食べられないから1杯をみんなで分けて食べて、それが面白かったって。まだ当時はコンビニもない頃だから、先生に連れられてうどんを食べるなんて、すごい面白かったんだろうね。

その頃はかなり革新的に、教育改革をやろうっていう号令をかけて、担任の先生が任されて自分の授業を作ってたんだって。その1年と3年の時の担任の先生は両方ともご健在で、今でも僕が岐阜に帰って何かやると遊びに来てくれます。

国谷

お話がつながってきたように感じてきました。「TURN」と「少年時代」と「対決」と(笑)。

 

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【対談後記】

社会課題の解決にアートの力、イノベーションを生み出すためにデザイン思考など最近様々な分野でアートを活用する動きが高まっていますが、日比野先生は早くから多様な場所で自分を表現してこられたのです。

対談は、外へ外へと目を向け芸術と社会との新しいチャンネルを作ってきた日比野先生のその原点を探るものになりました。たどりついた小学生時代のエピソード。銀行とのトラブルをクリエィティブの力を使い、子供たちも巻き込みながら解決を図った先生。その体験は今につながる「自分の身近な出来事が作品になる」ことと語った日比野さん。是非、もっと多くの子供や大人、もちろん学生たちがそうしたことを肌で学べるよう場づくりをしていってほしいと思いました。

 


【プロフィール】

日比野克彦
美術学部先端芸術表現科 教授/美術学部部長 1958年 岐阜県生まれ 1982年 東京芸術大学美術学部デザイン科 卒業 1984年 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程デザイン専攻 修了


撮影:新津保建秀