東京藝術大学 東京藝術大学入試情報サイト SDGs 共創の場 藝大アートプラザ 万博体育APP官方网_万博体育manbetx3.0クラウドファンディング 藝大レーベル / GEIDAI LABEL supported by Warner Music Japan グローバル 藝大フレンズ 早期教育 東京藝術大学ジュニア?アカデミ
クローズアップ藝大 - 第二回 菅英三子 音楽学部声楽科教授

連続コラム:クローズアップ藝大

連続コラム:クローズアップ藝大

第二回 菅英三子 音楽学部声楽科教授

クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。万博体育APP官方网_万博体育manbetx3.0の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。

>>過去のクローズアップ藝大

 

第二回は、声楽科教授であり、大学院音楽研究科のオペラ専攻の主任(インタビュー時)である菅英三子先生。平成 31 年3月、音楽学部声楽科のレッスン室にてお話を伺いました。


正門から入って真っすぐ進むと木立の中に藝大ゆかりの芸術家たちの銅像が立ち並びその奥に音楽学部があります。

建物の中はとても静か。授業が行われるレッスン室はそれぞれ防音され外に音が漏れないようになっているのです。加えてインタビュー当日は受験の最中で職員の方から廊下での話し声も慎むようにと言われるほどピリピリとした空気が流れていました。菅先生が待ってくださっていたレッスン室には広々とした空間があり、先生はにこやかに大きなグランドピアノの横に立っておられました。


声を身体で支えて、身体全体が共鳴し合って歌います

国谷

こちらのレッスン室で教えていらっしゃるのですか? 藝大のレッスン室は、普段、なかなか入る機会のないお部屋です。

確かに、レッスン室はポツポツ穴がある防音壁、二重扉、二重サッシの窓など、一般の方には馴染みがない部屋ですね。ここで、学生は発声したり、ピアノに合わせて歌ったりします。オペラ指導になりますと、歌に動作が加わりますから、立ったり、座ったり、歩いたりしながらです。アンサンブルのレッスンを除けば、基本は、一対一の個人レッスンです。

国谷

菅先生は、身体全体が楽器であるとおしゃってますよね。私も声を出す仕事をしているので、大変興味があります。

声楽は難しく考えずに、人が自然にやっているように息を吸って、声を出すのが基本です。声に、ただ音符がのっかっていくだけなんですよ。そして息の流れをコントロールして、声を全身で支えるようにして歌います。頭の先から足の先までの全身が、共鳴しあって音を出すんです。指先まで響いている感じがします。ですから、例えば、手を骨折してギブスをつけていたとします。すると、もういつものようには歌えません。共鳴が変わるんです。声楽に手の骨折は関係ないと思われるかもしれませんが、声を支えるのは全身なんです。まさに全身が楽器となります。

国谷

菅先生はソプラノ歌手でいらっしゃいますが、ソプラノの学生さんに教えていらっしゃるのですか?

今年度は32名ほど担当していて、ほとんどソプラノですが、アルト2名、テノール1名、バス1名も教えています。

国谷

先生はソプラノ歌手の中でも高い音域やコロラトゥーラが得意とされてらっしゃいます。練習すると高い音域が出るようになるのですか?

それぞれの学生に合わせていきます。最低限の音域はありますが、レッスンを続けていくと、それぞれの得意な部分が分かってきます。高い音域が得意な学生には、さらに音域が広がるように指導して行きます。コロラトゥーラやアジリタと呼ばれるフレーズは、細かい音符をコロコロさせて歌います。音符がギュッと詰まっているイメージです。そういうフレーズを歌う事が得意な学生には、更に歌えるように、得意でない学生でもテクニックを学べば、ある程度歌えるようになりますので、個々に合わせて指導します。

国谷

先生は高い音はどこまで出せるのですか?

真ん中のド、その上のド、その上のド、その上のソまでです。

 

「努力して克服するもの」ではなく、「楽しく学べるもの」を選びました

国谷

先生はご両親が聖歌隊で、小さな頃から音楽に親しんでいらしたのですね。

はい。実家が教会で、そこで合唱団が練習していたりして、常に宗教音楽が近くにありました。私は、2歳半くらいからピアノを習っていたようです。姉がヴァイオリンを習っていて、私と妹はピアノで一緒にアンサンブルしました。父が牧師でしたから讃美歌が多かったですね。
家の中でも、いつも音楽が流れていました。ですから私も自然に音楽に親しむようになりました。赤ん坊の頃からピーピーと大きな声を出していたと言われます。

チャーミングな菅教授のレッスン室の扉

国谷

ご家族でアンサンブルなど楽しそうですね。音楽を学ばれる上で大変恵まれた環境で育たれ小さい頃からピアノも習っていらっしゃいました。ですが、大学ではピアノではなく、声楽に進まれます。

そうなんです。どちらを選ぶかは悩みました。どちらも大好きでしたから。ただ、自分にとって「ピアノ」は「努力」でした。ピアノは練習を積み重ねて、努力して克服するものだったんです。一方で、自分にとっての「声楽」は、「楽しいもの」でした。どんなに難しくても練習するのが楽しい。「努力」とは思わなかった。一生、楽しんで勉強していきたいと思ったんです。それで、私は声楽を選びました。

国谷

それは、どなたか指導者の影響があるのでしょうか。

いいえ。ピアノも、歌も、とてもすばらしい先生に習っていましたので、結局は、自分が声楽の方が好きだったということでしょうね。

国谷

声楽は、中学2年から勉強を始められたんですよね。

はい。声楽は身体が楽器ですから、ある程度身体が成長していないと駄目なんです。女性でも声変わりがありますから、子どもの頃は児童発声になってしまうんです。ですから、中学2年の冬まで待って習い始めました。

国谷

そして、京都市立芸術大学に進まれます。大学生活はどうだったのでしょうか。

とにかくに楽しい4年間でした。高校までは、数学や理科などもすべて勉強するわけですが、大学での科目は、語学科目であれ教養科目であれ、すべてが音楽につながって行きます。何よりも歌うレッスンが楽しくて仕方がない。それが嬉しくて楽しくて、充実した学生生活でした。

国谷

先生とお話していると、全て「楽しい」となりますね(笑)。難しいことなどはなかったでしょうか。

それはもちろんあります。佐々木成子先生という方に師事したくて京都市立芸術大学に入ったのですが、シューベルト作曲の「野ばら」の最初の8分音符4つを、それぞれ30分かけて説明されるような先生でした。ドイツ語で「ザー アイン クナープ アイン」と歌詞があるのですが、一音一音の強弱や、一つ一つの意味や背景を説明されます。この調子ですから一年で一曲しか進まない。佐々木先生が意図されていることを理解するようになれるまでに時間がかかりましたね。とても厳しかったですが、音楽の奥深さを学びました。

国谷

京都市立芸術大学でオペラの基礎となることはすべて学ばれたわけですか?

今考えると、学生の人数も少なく、その人数でできるオペラシーンも限られ、すべて学べた訳ではありませんでした。だた、大学の4年間で学んだ基本的な動作は、後々も役に立ちましたね。本学でも、ご担当の先生方から、とてもいい指導がされていると思います。
まず、立ち方です。こうやって立つと客席から、どう見えるかを教えます。そして座り方。座る時も足を平行にそろえるのではなく、少し前後にして浅く腰掛けます。客席からどう見えるのかを意識します。その後の動作のことも想定して座ります。立ち上がった時に、すっと立てるように考えて座る訳です。
また、オペラでは歌う時の立ち位置も重要です。どこが舞台の中心か、そして誰に向かって歌っている場面かを考えて、体を向ける方向を決めます。歩くときは身体の中心で歩く、などもありますね。

国谷

今、先生から教えていただいた美しく見える座り方、歩き方はどんな場でも使える普遍性があるものですね。

 

辞書を片手に指導を受けた留学生活から、ヨーロッパで活躍するオペラ歌手に

国谷

京都市立芸術大学を卒業された後、ヨーロッパで活躍されるオペラ歌手になりますが、そこに至るまでのことを教えていただけますか? 卒業されてから、仙台のご実家に戻られて、たまに演奏会に呼ばれて出演する程度でしたよね。その頃のキャリアを見ると、あまり野心的な方ではないような印象を受けます。

そうですね。野心や大志を抱いていた訳ではありませんね。まったく逆かもしれません。

大学を選ぶときもそうでしたが、とにかく「『好き』なことを勉強したい」という想いだけで、生きてきました。大学を卒業した後も続けて師事していた佐々木成子先生に勧められるままに、海外に行ったのは27歳の時。初めて飛行機に乗りました。
留学したいと思っていた訳ではなかったので、ドイツ語もままならない。辞書を片手にレッスンを受け、聞き取れない言葉は、辞書を指さしてもらいました。片言でも話していると、友人が直してくれる。そうやって語学を覚えてきました。

1990年オーストリア、ペーター?シュライヤー氏のマスタークラスにて

1991年ドイツ、バート?ヘルスフェルト夏季音楽祭にて、モーツァルトの「ドン?ジョヴァンニ」でドンナ?アンナ役に

国谷

ドイツ語も分からないまま留学し、名門であるウィーン国立音楽大学に入学し、そして首席で卒業される。そしてオペラ歌手としてデビューされる。とても素晴らしい結果を残されますよね。野心がないとおっしゃっている割には、いざ、チャンスが巡ってきたときは、迷わず飛び込んで行かれるのですね。

向こう見ずなところが大いにありますね(笑)。まさか、自分がオペラ歌手になるとは思っていなかったんです。ウィーン国立音楽大学に進み、在学中に先生の知り合いの演出家からオーディションの話が舞い込み、オペラ歌手としてデビューが決まりました。その後も、次々と仕事が決まりました。声をかけてくださった方への感謝の気持ちで、一つ一つこなしてきた感じです。

国谷

オペラ歌手としての最初の公演は緊張されましたか?

すごく緊張するはずだったんですけど。オペラ公演はモーツァルト作曲の「後宮からの逃走」で、私はラクダに乗りながら登場することになっていました。リハーサルの時は、フタコブラクダは従順でしたし、乗り降りの練習もして、なんの問題もなかったのです。ですが、本番はラクダに乗って舞台に何とか出たのですが、ラクダの方が緊張してしまったのか、綱を引く人の言うことも聞かず、ぐるぐるぐるぐると舞台を歩き回ってしまい、私は降りるに降りられない。ラクダが止まらないのですから。次の場面になって合唱隊が舞台に登場したときに、ラクダが合唱隊とぶつかり、ラクダが一瞬に止まったところで、「今だ!飛び降りろ!」と言う声が聞こえ、ラクダの上から夢中で飛び降りました。その後、ラクダにつかまっていた手が固くなってしまっていて、そちらに気を取られながらも、セリフを言い、歌を歌い切りました。

国谷

かなり高いところから夢中で飛び降りて、歌う、大変ドラマチックなデビューでしたね!衣装だって舞台用のドレスだったのではないですか?

夢中で飛び降りました(笑)。衣装はズボンに巻きスカートでしたので、それは問題な かったですね。次の公演でも暴れ、結局ラクダは、くびになっていました。そんな初演でしたから緊張はしませんでしたね。

国谷

大変な初演でしたね。くびになったのが先生じゃなくてよかったわ(笑)。

 

それぞれに自分の人生を見つめ、自分軸で考える

国谷

ヨーロッパで活躍された後、大学教員になって学生を指導する立場になりましたが、今までの話の流れから考えると、そういう目標があった訳ではないのでしょう?

はい。全く(笑)。自分が教員になるとは考えてもいませんでした。いつも、仕事をいただくときは「私で本当にいいんですか」と聞きます。演奏家になる時もそうでしたが、それを目指していた訳ではないんです。ですから、足りないところが沢山あることは自分が一番よくわかっているんです。そして、お仕事を引き受けたら、足りない部分は足りない部分として認識して、一生懸命やります。
大学教員になってからは、教員としての仕事と演奏活動が重なれば、迷わず教員としての仕事を選びます。教員としての本務があるのですから、そちらが優先です。そういった縛りの中で、演奏活動をします。それでも仕事が回らなくなれば、自分の時間を削って対応します。それが自分の与えられた役割だと思っています。

国谷

学生を指導する立場になられて、学生に対してどのような印象をお持ちですか?どんなことを伝えたいとの想いが強いのでしょうか?

そうですね。まずは、時間を大切にしてほしいです。学生はこの学べる環境や、若い 「今」が、ずっと続くと思っているように感じます。いつでもできるから、「今」やらなくてもいい。と考えてしまう。もちろん全員ではありません。でも、恵まれた環境にある「今」は続かないし、「今」しかできないことがあるんです。留学も私の頃よりずっと身近になりましたが、その分、恵まれた時間を大切にしていないと感じることがありますね。
それと、もう一つ伝えたいこととして、「見極めが肝心だ」ということです。例えば、「ヨーロッパに行って個人レッスンを受けて、なんとなく何十年も経ってしまった」ということがあります。そうなる前に、見極めて、違う方向を向いて欲しいんです。諦めるとは違います。ここまで努力したならば、次の展開を考えようと方向転換するんです。

国谷

ただ、この狭き門の東京藝術大学に入学した方には違う方向を向くのは辛い選択でもあり、勇気がいることではありませんか?

はい。ですが、やはり、最終的に見極めて選択する行為は自分にしかできないことです。それぞれに自分の人生を見つめ自分軸で考える。すぐに成果を求めようとするのではなく、目に見えないものを大事にして努力する。そうして見極めていく。最近は、すぐに結果を求めようとする傾向にあります。でも、周囲も少し待ってほしいんです。本人が一番よくわかっている訳ですから。本人が考え抜いて決断しないといけない。
私は、様々な卒業生を見てきましたし、音楽を職業にしない学生もいますが、それぞれに努力し、見極めた結果です。私はその選択を尊重しますし、演奏家として活躍することだけを求めたり、目に見える成果をすぐに期待するのは違うなと思うんですね。

「リーダーアーベント(歌曲の夕べ)」は最近の活動のひとつ

国谷

先生が担当されている科目「オペラ実習Ⅰ」を拝見しますと、到達目標として、次のように書かれています。

『到達目標?カリキュラムの位置づけ:音楽学部の掲げているカリキュラムポリシーに沿って、創造、表現、研究に必要な能力を養い社会に求められる人として育つことを目的とし、オペラについての知識と歌唱?演技表現の基礎を日々の実習を通し修得する。オペラでは、優れた歌唱能力に加え知性豊かな社会的感性の備わった人間性にも優れた人材が求められるため、加えてグローバルな観点に立って自らの演奏行為を充実させられるよう日々の研究を計り修得するものである。』

優れた歌唱能力に加え、知性豊かな社会的感覚の備わった人間性にも優れた人材を育てていこうということですね。

その科目は複数の教員で担当しておりますが、少し目標が高すぎますか(笑)?
どんな芸術でも同じかと思いますが、作品に怖いくらい人間性が現れますよね。どんなに声が美しくても、どんなにテクニックがあっても、どこか薄っぺらいとか。「あなたは、この曲のどこに感動したの?」と聞きたくなる時があります。人間としての引き出しをたくさん持って、知性豊かであってほしいという目標です。
また、オペラの場合は、舞台を作るには歌い手だけでは成り立ちません。舞台を作る大道具さん、衣装さん、様々な方との協調性が必要になるんですね。皆に支えられて舞台が作られていくという協調?協働の精神も教えていきます。

 

人間としてどう生きるか?

国谷

菅先生のお話を聞いていると、学生の指導にしても、ご自身の演奏活動にしても、「人間としてどう生きるか?」というお考えが、根底にあるように感じられます。そのお考えは、どのように培われたものなのですか?

おそらく、家族が影響していると思います。自分には、常に生死が隣り合わせだったんです。両親と4人姉妹の6人家族でしたが、今は2人だけです。四人姉妹の一番上の姉は赤ん坊の時に、そして妹は12歳で亡くなりました。そして私がヨーロッパに行く直前に父が突然死しました。昼まで仕事をしていて午後には亡くなってしまったんです。そして、東日本大震災の数年後、姉が亡くなったんです。姉は、夜、普通に床に就きましたが、翌朝亡くなっていました。

国谷

ご家族一緒にアンサンブルもする、大変仲の良いご家庭でしたよね。辛いご経験ですね。お姉様は東日本大震災で被災されたのですか?

仙台でも場所によって揺れは異なっていて、姉のいた場所は、建物が全壊するような液状化した地域で、姉のマンション自体は壊れなかったのですが全壊判定が出て、姉は震災時に食器棚も本棚もみんな倒れ、テレビが飛んできたと言っていました。「こんなに揺れたことを、誰も分かってくれない」とも。
震災の直後、私が仙台に行くと、姉が二回り位小さくなっていました。しばらくして元に戻り、翌年(2012年)3月になると、また小さくなっていました。姉は「自分は小さくなっていない!」と言っていましたけれども。しばらくして元にもどり、そして、翌年2013年3月、小さくならなかったんですね。
「よかった。今年の3月は小さくならない。」と安心していると、震災の日(3月11日)の一週間後の2013年3月18日、突然亡くなりました。震災が影響したんだと思いました。

イギリスや北欧のお土産が書棚に

国谷

そうでしたか、震災の2年後。震災の影響は計り知れません。

そんな経験もあって、自分の死生観が独特になっていったと思います。自分の命も体もお預かりしていて、その時、その時を、精いっぱい生きるのだと思っています。でも、こういう話は重くなるので、とにかく明るく授業していますよ(笑)。

国谷

もうすぐ卒業式ですが、学生にどんなメッセージを送られますか?

それぞれの人生を大事にしてほしいですね。それぞれの花を咲かせてほしいと思います。咲く時期も異なるのですから、人と比べることなく、自分にとってかけがえのない時間を、自信をもって過ごしていただきたいですね。


【対談後記】

「オペラ歌手にも教授にもなりたいと思っていなかった」、「『好き』なことを勉強したいという想いだけで生きてきた」、「成果を急がずに目に見えないものを大事にして努力する」と言う菅先生。少しかっこ良すぎませんか?と突っ込むべきでした。が、穏やかでにこやかな表情、どこまでも自然体の先生を前に最後まで尋ねませんでした。
「作品には怖いくらい人間性が現れる」ことを生徒たちに伝えている菅先生、芸術家に求められる自分と向き合う厳しさを聞いたように思いました。


【プロフィール】

菅 英三子
音楽学部声楽科?大学院音楽研究科声楽専攻?オペラ専攻教授 岩手県水沢市(現奥州市)で生まれ、仙台市で育つ。京都市立芸術大学卒業後、ウィーン国立音楽大学を首席で修了。 フランシスコ?ビニャス国際声楽コンクール“コロラトゥーラ?ソプラノ賞”、アルフレード?クラウス国際声楽コンクール第二位、ウィーン国際新進オペラ歌手コンクール第一位他受賞多数。1991年の現プラハ国立歌劇場でのオペラ?デビュー以来、プラハ国立歌劇場、ブルノ国立歌劇場他多数のオペラ公演や、ボストンシンフォニー、NHK交響楽団他多数の演奏会に出演。京都市立芸術大学音楽学部准教授を経て、現職。


撮影:新津保建秀